2015年04月19日 ---- ボス

内田一郎先生、ありがとうございました。(その2)

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留年し、5年目になっても私の単位はまだまだ不足していた。卒論の発表を終え、就職先は前田建設工業に決まっていたが、幾つかの必須科目の単位が取得できないまま後期試験に臨むことになった。ここで一つでも取りこぼすと、さらにもう一年留年となる。最難関は『コンクリート工学』と『水理学』。これまでに試験、追試、再試、再々試と受けたがこの2教科は全く歯が立たなかった。◆『コンクリート工学』は松下博通先生の教官室で最後のチャンス「再々々試験」をマンツーマンで受けることになった。松下先生は、わざわざ私一人のために問題用紙を用意していた。その問題を見た瞬間に「あっ、これは無理だ。オレには解けない」と思った。しばらく悩んでいたら松下先生が言った。「キノシタ、申し訳ない。これからこの部屋に客が来ることになった。悪いけどオマエ、鉄筋研の研究室でやってきてくれ。90分後に必ず戻って来いよ」と。私は親しい先輩や友人が多くいる研究室へ行き、みんなに問題を解いてもらった。90分後、完璧な解答用紙を見て松下先生は笑顔で言った。「よし、合格。キノシタ、よく頑張ったな。これで卒業できるな」と。◆だが実はまだ最後に『水理学』が残っていた。『水理学』はこの年に助教授になったばかりの若いK先生。それまでの椿東一郎(つばき とういちろう)先生の出す試験問題は友人が「傾向と対策」を作ってくれていたのだが、前年に椿先生が退官し、K先生の問題は全く予想がつかない。それ以前に、そもそも『水理学』とやらが私には全く理解できなかった。『水理学』の再々々試験、つまり最後の試験を翌日に控えたその日、私はなんの用事だったのか教務課を訪ねた。すると教務課の、優しい事務のオバサマ、赤間さんがニコニコしながら話しかけてくれた。「あら、キノシタさん、私、間違えてまだ貼っちゃいけないものを掲示板に貼っちゃったみたい」と。見ると壁に「水理学」の合格発表が貼ってあり、私の名前があった。◆「キノシタさん、内田先生に感謝しなさいよ。でも面と向かってお礼を言っちゃダメよ。内田先生が九大でした最後の交渉だったようだけど、これは表には出せない話なの。分かるでしょ?」・・・赤間さんが女神様に見えた。内田先生が仏様に思えた。赤間さんは小さい声で言ってくれた。「これで本当に卒業できますね。おめでとう、キノシタさん」◆詳しくは知らないが「ダメなものはダメ。試験の点が取れてない者を卒業させるわけに行かない」と突っ張るK先生に対し、退官間際の内田先生が「そこをなんとか」と頼み込んでくれたようだ。現在の大学では、一人の学生の合否に関して、担当外の教授が「合格にしてやってくれ」と頼むことなどないだろう。古き良き時代だった。◆内田先生に恥をかかせないように私はその夜、まさに一夜漬けの猛勉強をした。しかし翌日の「水理学」の再々々試験は惨憺(さんたん)たるものだった。恐らく零点だった。K先生は不愉快そうだった。私は内田先生に申し訳ないと思った◆昨日この欄で書いた、内田先生との最初で最後の食事、天麩羅屋には実は赤間さんも同行してくれていた。内田先生は終始笑顔だった。私は赤間さんとの約束どおり、「水理学」のお礼を内田先生に告げることをしなかった。◆その晩、別れ際、赤間さんが優しく微笑みながら「キノシタさん、あの話はお墓まで持って行かないとダメよ。人にしゃべっちゃダメよ」と念押ししてくれた。あれから35年。墓までは持っていけなかった。◆内田一郎先生の訃報に接して思い出した。思い出すと居ても立ってもいられなくなった。昨日(18日・土曜)、いくつかの用事をキャンセルして、山口まで先生にお別れを告げに行った。お礼を伝えに行った。先生は祭壇でにこやかに笑っておられた。「キノシタくん、頑張っていますか?」そう訊かれたような気がした。内田一郎先生、ありがとうございました。

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  • 午後事業計画見直し
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