◎2016年10月20日 ---- ボス ◎
- 秋場毅さん、納骨
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昨年9月30日、この欄で「不義理」と題して、私が大変お世話になり、大好きだった先輩、秋場毅さんのことを書いた。◆あまり差し出がましいことも慎むべきだろうが、もし秋場さんが無縁仏となってしまうことがあるようだったら私が墓を準備するつもりであった。将来、自分が入る墓の隣に秋場さんの墓を作り、そこに先に入っておいてもらおうと思っていた。家人にもそのことを話していた。お金も準備もしていた。◆先週、前田建設時代の秋場さんの同僚だった方から連絡をもらった。いろんな処理が終わり、秋場さんの両親の墓が分かり、そこへ秋場さんも入ることになったということだった。私は安心した。その墓は静岡県御殿場の近くにある。この週末(22日・土曜)納骨式だという。もちろん私も参列する。無縁仏として処理されるかもしれなかった秋場さんを無事ご両親のもとへ導くことに大変なご尽力くださった秋場さんの同僚、新谷良司さんに深く深く感謝する。
[以下 昨年9月30日の文]
昭和57年に九州大学を卒業した私は前田建設工業(株)の東京支店に勤務することになった。夜行列車で単身上京した。最初の勤務地は練馬区石神井公園の橋梁工事の現場であった。当初は江戸川区にある社員寮から通っていたが、現場が忙しくなるとほとんど毎日仕事場に泊まり込むことになった。当時の作業所にはいわゆる「飯場(はんば)」と呼ばれる宿泊施設があった。六畳間に五人が寝ることも珍しくなかった。◆入社1年目の正月休みの間、私はその作業所に当直勤務を命ぜられていた。大した戦力にならない1年生を現場が休みの間当直させ、正月休みが開けたら代休を取らせるという所長(私の恩人・川嶋氏)の配慮があったのだと思う。その当直期間中に私は扁桃腺炎で高熱を出し寝込んでいた。◆39度3分の高熱に苦しみ、食べるモノもなく一人煎餅布団に寝ていた。元日だったか二日だったか、3年先輩の秋場毅(あきばたけし)さんが車で様子を見に来てくれた。手におせち料理を持っていた。吉祥寺の自宅から通っていた秋場さんは私が正月に一人で当直しているのを可愛そうに思い、母親の作ったおせちをわざわざ持ってきてくれたのだった。もちろん私が寝込んでいることなど知らなかった。布団の中の私を見て「キノシタ!どうした?大丈夫か?」と心配してくれた。私はなんとか布団から這い出て、久しぶりの食事をいただいた。おかげで翌日は熱が38度3分まで下がったことを覚えている。39度3分の熱が38度3分に下がると随分と元気になった気がした。翌日も翌々日も、秋場さんは母親の手料理を持って私を見舞いに来てくれた。若い私は三日後には元気になった。◆私が前田建設工業を辞めてからも秋場さんとの交流は続いた。飲み会があるといえば電話をくれ「オマエも来いよ。みんな会いたがってるよ」と誘ってくれた。私は秋場さんを通じて、お世話になった前田建設工業との繋がりをずっとずっと維持できた。その秋場さんが病に倒れ前田建設工業を辞めたのは10年くらい前だったろうか。週4回の透析を続ける秋場さんは会うたびに痩せ、老けていった。こちらが誘っても「お酒も飲めないし、食事も一緒にできないから」などと言ってやんわりと断られた。歩くこともきついようだった。◆昨日、ある方から秋場さんの死を知らされた。「今年の2月に亡くなられたそうだ」と彼は言った。生涯独身であった秋場さんは一人住まいのアパートでひっそりと亡くなっていた。昨日まで、アパートの大家以外は誰も秋場さんの死を知らなかった。秋場さんには親類縁者もいなかった。◆あのときお母さんの手作りのおせちを私に届けてくれた秋場さんに、前田建設工業との縁を繋ぎ続けてくれた秋場さんに、私はなんの恩返しもできなかった。◆偉そうに「義理・道徳」が最も大切だ、などと言いながら、私はまた大きな不義理を犯してしまったことに気づき、苦しんでいる。◆秋場毅先輩、ありがとうございました。ごめんなさい。安らかに眠ってください。ごめんなさい。 - コメント (0)