◎2017年11月22日 ---- ボス ◎
- 変態も可哀そう
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某参議院議員の息子が強制わいせつの疑いで逮捕された。路上で小学校低学年の女児の体を触ったという。「とんでもない話だ!」「厳罰に処せ!」というのは簡単だし私もそう思ってもいる。だが、このような事件の報道に接するたび私は自分にそのような欲求や性癖がないことに安堵する。◆コンビニで「これ欲しいな。誰も見てないな。万引きしちゃおうかな」となる気持ちは理解できる。その気持ちは理性で押さえなければならない。女子の更衣室を「覗いてみたいな。今なら誰にもバレずに覗けそうだ。覗いちゃおうかな」という気持ちもわかる。それも理性で押さえなければならない。満員電車で魅力的な女性と体が密着する。「触ってみたいな」という気持ちも分かる。もちろんそれも理性で押さえなければならない。だが小学校低学年の女児の体を触りたいという欲求を持つ男の気持ちは全く理解できない。「理性で押さえるべきだ」というのは理論としては正しい。だが自分にはそのような欲求がない人が欲求を持つ人に対し「理性で我慢すべきだ!」として裁き罰を与えるシステムはやむを得ないとは思いながらどこか引っかかるものがある。◆性同一性障害の方々の気持ちも私には理解できない。彼らには人に言えない特殊な欲求があったのだろう。今は世間が性同一性障害に理解を示すようになったが、30年前、50年前、100年前にも同じ障害に悩む者も多かったろう。「変態」と蔑まれていたのかもしれない。◆幼児に対してに性的な興味を抱く者をただの「変態」と決めつけて「理性で押さえろ! できなければ厳罰だ」で済ませておいてはいけない気がする。人に言えない妙な欲求を持って生まれた人たちに対し「変態!」の一言で片づけていたのでは不幸な犯罪とその犠牲者は減ることはないだろう。◆どうしても理性で押さえることができずに女児の体を触ってしまった変態者が少し可哀そうにも思える。(被害にあわれた女児やその親御様にとっては私のこのような発言は不愉快極まりないことであろう。申し訳なく思う。)
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